猫が発するネコナデ声というものを聞いた事がおありか?私は、ない。
私にとって猫はどちらかというとネガティブな存在だった。
あれは小3の夏休み。野良猫が駐車場に停めてあった我が家のブルーバードのボンネットで昼寝をしていた。なんかムカついた私は、持っていた緑色のゴムボールを投げつけた。
猫は鮮やかにかわし逃げた。フロントガラスに当たったゴムボール。そう、たかがゴムボールが、フロントガラスにクモ巣の様なヒビを作った。猫の恨みだと思った。
上京したての頃。その頃の主食はもっぱら菓子で、いつものように夕飯を買って出たローソンの前に野良猫がいた。私は買ったばかりのサッポロポテトバーベキュー味の袋を開けて、そっと猫に差し出した。次の瞬間、目にも留らぬ速さで鋭い爪が私の手の甲を襲った。私の夕飯の一部をくわえて猫はあっという間にいなくなった。その傷は、なんと半年も消えなかった。もう猫の恨みを確信せざるを得なかった。
会社員になり、同僚と飲んだ帰りの川辺で、小さな猫が小さなヘビとケンカしているのに遭遇した。東京都心なのに。昔見たコブラ対マングースショーを思い出した。猫は私を一瞥し、すぐさまケンカに戻った。酔ってたので「コラっ」とか言ってみた。ガン無視だった。なんか嫌なものを見たなと思ってたら、その晩の夢でヘビの代わりに私が猫と闘っていた。
と、いうように、歴史上私にとって猫はネコナデ声を発するような生き物ではなかった。
一方人間が発するネコナデ声というのは、聞いたことがある。というか、よく聞く。
おねだり、おべっか、おねがい、おすがり。むしろ私が発したりもしている。元祖「ネコナデ声」を聞いてもいないのに。
ネコナデ声とは、「ヒト」が「ネコ」を「ナデ」た時に、発する声なんだろうと思っていた。ある一定の部位を刺激すれば、猫が発することになっている声なんだろうと。猫は勝手気ままでわがままで、極めて人間ぽい性格だから、かわいい声で煙幕張って、丁よくエサをせしめると、ハラの中で真っ赤な舌を出しているに違いないと。この持論を私は長い間バカみたいに友人にふりまいてきた。
だが、この論は8割方同意を得られなかった。特に猫に近しい人間程。色々聞くと、どうもそうではないと。ヒトと猫との関係線に「信頼関係」という絆っぽいものが必要だそうだ。
じゃないと「ネコナデ声」にならないと。なるほど。ちょっとその気になってサッポロポテトあげてもネコナデ声は返ってこないわけだ。ましてや人間が発するネコナデ声など、むしろ、かりそめの信頼関係を勝ち取るためのヨコシマなものだわな。
と、言うような事がずいぶん長い間ぼんやり頭の中で気になっていて、そしてある時、唐突に猫の映画を作ろうと思った。猫の映画といえば、チャトラン「子猫物語」。だが、そんなもの作れるわけがない。猫に冒険なんてされた日には、いつ撮り終わる事か。猫と人間の信頼関係というテーマを、きちんと人間の視点で作れたらと思った。猫は冒険しない。人間が猫との信頼関係をあれこれ右往左往しながら獲得していく話を書いてみた。それこそヒトが発するネコナデ声に聞き飽きて辟易している中年サラリーマンが、捨て猫との関係線でもって本物のネコナデ声を聞けるに到る話。
主人公は僭越ながら、大杉漣さんを本当に最初の最初からアテ書きしてしまっていた。断られたらどうしようとワンシーン書き終わるごとに思った。初めてお会いした時、お読みになった漣さんが「読んでて自分の顔が見えてきました」とおっしゃって頂き、少しウルっとした。「これは俺じゃない」って言われたら、ヨコシマなネコナデ声を発するところだった。
さらに私の中でのサプライズはホンを読んでくれた大森美香さんが、とても面白がってくれて監督を引き受けてくれた事。超が付く売れっ子脚本家の彼女に、私の脚本って。なんとまあ、穴がなくても掘って入りたい気分ですわ。大森監督の前作「2番目の彼女」に薄くだけ関わらせてもらっていて、その群像の処理とか洒脱なキャラの差し込み方が、とても印象に残っていて、ぜひにと思っていたので、願い叶って万全の製作体制になった。本当に数え上げればキリがない程色んな人々にこの映画でお世話になった。実は色んな局面でネコナデ声も使ってしまった。でも要は信頼関係が築けた人と交わす会話こそ、ネコナデ声って事なんだと思う。何の計算もない、無垢で、無防備で、純粋で、でも何かをわきまえていて、関係を楽しめる会話。それを絆と呼ぶのかもしれない。
いずれにせよ、私はまだ猫の発するネコナデ声を聞いてない。
聞かずに死ねるかとまでは思わないが、聞けたら少し楽になる気がする。
この映画に関わった全ての人に感謝。そしてご覧頂く皆さんに多謝。